- 談話室
「暗黙知」は伝えることができるのか -共有可能な暗黙知と伝達不可能な暗黙知-
なぜ「暗黙知」を知りたくなったのかというと、「Artificial Intelligence(いわゆるAI)」が「人間の創造」に置き換わることができるのだろうか、と思い始めたからです。
「人間の創造」の源は暗黙知です。人間が暗黙知を共有できるのであれば、その暗黙知はいずれ形式知になり、2030年ごろに出来上がると言われている「汎用AI」が人間に替わるようになるだろうし、暗黙知が伝えられないものであるならば、「汎用AI」はそこまで到達することはない、と思ったからです。
「Polanyiの暗黙知」と「野中郁次郎氏の暗黙知」
「暗黙知」に関しては、元祖Polanyiの暗黙知と、ナレッジマネジメントを創出した野中郁次郎氏の暗黙知があります。Polanyiの暗黙知は技能や知覚などの身体能力を中心にしていたのに対し、野中氏の暗黙知はSECIモデルに代表される「組織で共有される暗黙知」を含みます。「思い」などが含まれ、野中氏の暗黙知のほうが少し広い概念になっています。
暗黙知の研究者ではないので、いい加減なことを言うかも知れませんが、人工知能(AI)に対抗できるのが、「創造性を生む暗黙知」のように思うのです。以前にも、本レポートで述べていますが、たとえば、特許調査の分野で重要な暗黙知は、「特許情報を材料に使って、美味しそうな料理に仕上げる能力」ですね。このインテリジェンスを生む暗黙知を伝えることができるかどうかが重要になると思うのです。
そういう面では、「身体知」としてのPolanyiの暗黙知も重要ですし、野中さんの「組織で共有される暗黙知」も重要となります。
伝わる暗黙知と伝わらない暗黙知
有名なシェフの料理の才能、つまり「与えられた材料を使って料理を創造する能力」は弟子に伝わるのでしょうか。残念ながら、料理に詳しくないので、よくわかりません。もうすこしわかりやすい事例で考えてみたいと思います。
優れた創造性を生む暗黙知で思い浮かんだのが、「長島茂雄のバッティング」です。彼のバッティング理論は、とても観念的で、感性そのものです。「真っ暗な部屋で素振りをし、バットが空気を切る音を聞いて、スイングがいいかどうかを確かめた」と言いますが、それを理解するのは素人には不可能です。
暗黙知がいっぱい詰まった「長島茂雄のバッティング」を、長嶋茂雄は松井秀喜に伝えようとしました。二人だけの時間をつくり、その伝授に力を注ぎました。結果は、「伝わった」と思います。2013年、長嶋茂雄と松井秀喜が同時に国民栄誉賞を受けたのがその証拠です。ふたりとも満面の笑みを浮かべて、賞を受け取りました。
一方で、難解で哲学的な表現をする「イチローのバッティング理論」は、誰にも伝わっていないように思います。スマートフォンを創り出したSteve Jobsの「美感覚&創造力」も、Apple社内に伝わっていないと思います。
「伝わる暗黙知」と「伝わらない暗黙知」があることがあると気づきました。
暗黙知が伝わるかどうかは、受け手の能力と努力
では、なぜ、「長島茂雄のバッティング」暗黙知が伝わり、「イチローとSteve Jobs」の暗黙知が伝わらなかったのでしょうか。
ヒントになるのが、Polanyiの本に書いてある次のような言葉です。「チェスのプレーヤーたちは、名人が行った勝負を何度も繰り返しては名人の精神の中に入り込み、名人の頭の中にあったものを発見しようとする。そして、チェスのプレーヤーたちは精神を巧みに操っている個人に出逢うのだ」
つまり先人の暗黙知を伝授される側の人間が、自己の能力を高め、先人のレベルに達しようとする努力をすることによって、優れた暗黙知を獲得することができるのだと、Polanyiは言っている、と解釈しました。
「長島茂雄のバッティング」の場合、松井秀喜が自分の能力を高め、長嶋茂雄のレベルに達しようと努力したことによって、長嶋茂雄の暗黙知を獲得することができた、と言えるのではないでしょうか。イチローとSteve Jobsの暗黙知が伝わらなかったのは、その暗黙知を獲得したいという人の能力と努力が足りなかったからではないでしょうか。もちろん、伝えたい側の情熱も伝えることができるかどうかのカギを握ります。
暗黙知のレベルと暗黙知の共有力
そう考えると、暗黙知の知的レベルによって伝えることの難易度が異なってくると考えられます。天才が保有する高いレベルの暗黙知は伝わりにくく、一方で比較的理解しやすいレベルの暗黙知は伝わりやすくなります。
野中さんのSECIモデルでは、組織の構成員が暗黙知を共有し、組織として知的創造が行われるプロセスを示したものですが、組織の構成員の能力が高く、暗黙知を理解しようとする努力もしっかりとなされ、「高いレベルの暗黙知感受性」を組織構成員が有していること、そして暗黙知が、組織構成員に理解可能なレベルであることの2つの条件が満たされると、「暗黙知の共有」が可能となるように思います。
野中さんが言いたかったことは、『組織構成員が高いレベルの暗黙知感受性を有しているのが日本企業の強みで、この強みを活かしてすばらしい製品を創造している』ではないかと思います。鉄鋼業の場合は、「現場力」が暗黙知共有の象徴であり、高いレベルの鉄鋼製品を作って世の中に送り出すことができるパワー源だと思います。それこそが「日本鉄鋼業の強み」であるのです。
だから、知的財産部門は、この組織および構成員をキープするために働かねばなりません。知的財産権の獲得だけ行っていればいい時代は過ぎ去ったのではないでしょうか。
冒頭で、『暗黙知が伝えられないものであるならば、2030年ごろに出来上がると言われている「汎用AI」は人間に置き換わることはない』と述べましたが、結論は、「高度な暗黙知は伝わらないが、比較的理解しやすい暗黙知は伝えることができる」ということでした。「人間は高度な暗黙知を獲得していれば、職を失うことはない」と言えそうですね。
(M.S.)